意識の有る生物と意識の無い生物のあいだ〜理解や欲求などの閾値で観察者が区別しようとしているだけかも

カエルはゾンビ…というツイートを見つけた。確かに、機械的に反応を返すイメージはそのように感じるかもしれない。となるとカエルを再現したコンピュータ・モデルであれば容易に作成できるかもと考えるのかもしれない。この時、意識の有無を言う時の問題のひとつの観点は、新たに(エピソード)記憶可能か?という点かもしれない。前回のブログでも話題にしたが、(エピソード)記憶が可能であればそれがメタ認知につながり、「意識的に」意識することができるようになると考えられる。

ただ、意識の有無の区別は、何か主観的なものが有るようにも思う。新たに(エピソード)記憶を追加可能か?ということの他に、遺伝子が持つ(とボクは呼んでいる)記憶で、(感情に繋がる)欲求を持つ必要が有ると考える人もいるかもしれない(awarenessと区別しようとする人もいるので)。

うーん、今のところ、その生物に意識が有るかどうかは正確には定義困難だろうか?「それが何か」の理解のためには記憶が重要になるけど、入力に対し感情を伴って反応するためには欲求の方が重要かもしれない。そうすると(本能の記憶により)獲物に向かって近づくカエルに、ゾンビと言ってしまって良いかどうかの疑問も生じる。本当はボクの立ち位置は、理解も欲求も記憶がおおもとになっているという仮説なので、本当はどちらであっても良いし、むしろヨノナカ一般の方が、これらを区別したがっているだけという理解なんだけど、その方向の考えを他で見つける機会は見あたりませんね。(感情が欲求により生じる…はボクが言ってるだけだけど。)

…感情が欲求により生じる…(ボクが言ってるだけ)…のところで意見の有る人がもしいたら、別のところで議論したい。(まあ、そんなところに注目する人はいませんけど。)

※以上、11/24のtwitterへのpostをもとに加筆・修正。

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