意識と無意識のあいだ〜メタ認知しているかしていないかの差しか無いのかもしれません

意識と無意識の境界ってなんでしょうか?ググってみると、「自律的=意識的」「他律的=無意識的」なんていうのが有りますがしっくり来ません。たしか、「意識の探究」では、意識に上らないシステムによる制御を無意識と呼んでいたように思います。意識と無意識は厳密に線引きできるのでしょうか?水の入ったグラスを手に取る時、または、歌を聞いてその続きを思い出す時…無意識にできるような気がします。ただ、自ら進んで思い出そうとしながら聞くと、意識的に聞いたことになるのかも知れません。

ホーキンスの考えからは、記憶に有るものは自動的に記憶に有ると確認され(基本的に無意識に処理される)、本当に未知の入力が有ると、新皮質の階層を駆け上がり、最後には海馬に届くという考えだったように思います。(そういう意味では、海馬はある意味ホムンクルスなのかもしれません。)ただ、ホムンクルスまで話が行くとちょっと極論なので少し落ち着きを取り戻す必要が有りますがww。実は全く未知の情報でも、気を抜いていると無意識の海に沈んで行くことも有りそうで。逆に、既知の情報でも、メタ認知しようという気になれば、「意識的に」意識することができるように思います。そうすると意識と無意識の境界って、メタ認知しているかしていないかの差しか無いのかもしれません。たまたま本人が「前に歌ったことがある曲だな」と思いながら聞いた曲は、意識できるという考えです。

ボクはメタ認知については前にブログ「メタ認知と意識のあいだ」に書いたように、、「本人の○○という思い」と「○○という思いについてのエピソード記憶」と(もっと言うと)「メタ認知とは…」という3つの[記憶]がそれぞれに連想して生じるように思います。それが本人のなかで認知(意識)されるためには強度(シナプスの繋がり)が重要と思いますが、「オリジナルの歌手が歌う曲を(本人が)テレビで聞いたことがある」くらいの本人の登場度では、意識できるかどうか微妙という考えです。こう考えると意識・無意識の区別を余り気にしなくて良くなって、インプットに対する反応は(本人の登場度によって段階的に変化し)、無意識的なものも有れば、意識的なものも有り、また、意識と無意識の中間的なものも有るという感じです。(閾値によるジャンプが有るかどうかは別の問題。)

無意識から意識を区別する時、ニューロンの発火を観察している人や、他の仮説を提唱している人は、ホムンクルス(観測者)を探しているのかもしれません。ボクが考えているのは、意識についてブログで何度か書いたように、記憶に有るものであれば(記憶との比較により)無意識に処理され、記憶に無かったものは(それと「意識」され)、新たにエピソード記憶として記憶されるという考えで、ホムンクルスについても観測者(複数のエピソード記憶から浮かび上がる虚像のようなものを)を疑似的に想定すればよいという考えです。

※以上、11/15〜11/16のtwitterへのpostをもとに加筆・修正。

keyword: 人工知能