「決定論と自由意志」を両立させる方法の話〜忘れてる場合は何も生じて無いけど、入力から次々と連想する場合は何か生じてる。
忘れるって、記憶そのものが薄くなるのと、連想の糸が細くなることで起きるような気がする。ギリギリ思い出す時って、連想の糸がギリギリつながって、憶えた時の鉛筆の濃さと同時に思い出したり。忘れてしまった記憶って、断片化されて呼び出しは不可能で、ダークマターとしてどんどん溜まってくるように思う(閾値以下になると呼び出せない)。ただ、夢や、神経細胞内化学物質の濃淡、等により突然 部分的に連想されることは有るかも。忘れているか憶えているかの話ってこんな感じかなと思う。次に、
決定論と自由意志の話… どうしても自由意志の問題を解明が必要なものと考え、この議論から離れられないケースが有るので少し書いてみる。自由意志の議論の経緯は省略して、いきなり話題に入るのですが、
サイコロを振って憶えているかどうかを決めるというのはどうでしょう?何億もの神経細胞内の化学物質の濃度はそれぞれ決定論的に決まるけど(ある閾値を超えたら憶えている)、憶えていることの組み合わせで、あるエピソード記憶が浮かぶと仮定したら。
例えば、忘れかけてた人を思い出して電話するとき、(たぶん)電話したら何かを発見したエピソード記憶があるからで、その記憶が有って止める理由が無ければ電話すると思う。(電話で苦い経験の有る人はもちろん別。)慎重な人は決定的なメリットを思い出した時にのみ電話する。
つまり、サイコロを振って電話するかどうか決めるというのは、それは本人の「意志」じゃないでしょと言いそうだけど、「思い出すか出さないか」のところでサイコロが振られているとしたら。確かに思い出す場合と出さない場合が有りそう。(各細胞の濃度のゆらぎをサイコロで例えています。)各細胞の濃度を自由にコントロールすることは不可能ですよね。サイコロを振って電話するかしないか決めるのではなく、サイコロで憶えているかどうかを決める話(2段階になっている)。意識(意図のレベルのものも含む)についても、エピソード記憶で決まるのではって前にツイートしましたが、同じような仮説です。
茂木さんから、上の話を受けて「量子力学でも不確実性がありますが、それ自体は、私たちの認知的な自由意志には直結しないと私は考えます。」というツイートをもらいましたが、「ランダムなプロセスがあることを排除するものではない」とも言われていました。自由意志の話題にある種の閉塞感を感じていたから、少しでも肯定的に捉えてもらうのはほっとします。
自由意志は何らかの条件により拘束されているという認識も有ると思います。ボクが考える制約としては、経験の記憶から来るものが有ると思うけど、上の仮説は、思い出してしまえば自動的に行動までつながるというものです。
[思い出してしまえば自動的に行動までつながる]場合、それは自由じゃないでしょと言いそうだけど、計算機で再現してみたい。憶えているかどうかをランダムとし、思い出し連想したエピソード記憶の組合せで行動につなげる。もちろん、保留して成功した記憶が強ければ何もしないことも有りうるという処理で。[思い出してしまえば自動的に行動までつながる]場合でも、浮かんだ記憶の中から、決定的なメリットを思い出した時のみ決定する等、この時当人には自分自身で意志を決めている実感がありありと浮かんでいるのような気がする。(当人に過程をtsudaってもらうと良さそうですね。もし実現可能であれば。)
準備電位の件は、ボクはごく自然なことと思っています。脳神経のあるエピソード記憶を閾値まで立ち上げるには個々も含め時間がかかる…。前提は、上の、意識についての[どこにも拒否権の無い]一つの仮説ですが。
ここまででもかなりヘビーな内容になってるけど、さらに、別仮説を書いてみる。
[サイコロは振られておらず全て決定論にのっている]というもの。[記憶を思い出すかどうか]が(サイコロによらず)全て決定論にのっているという仮説。(実は本質では同じ事を言ってる。)[多くの記憶が閾値を超えて連想される時、決定論にのっていて本人にはコントロールできない。]一方本人にはエピソード記憶から意志を決めている実感がありありと有ると思う。
意識がどのように生まれるのかとの問いかけに戻ってみると、
意識するとき、各要素(エピソード記憶)はそれぞれ決定論に従って想起(連想)されているが、(計算機的に考えると)無数の要素からどれが閾値を超えて意識されるかは予測できない(n×n×…の組合せが膨大に有り、またそれぞれが実際は0/1の信号ではなく微妙な電気(化学物質の濃度?)信号によっている)。一方、本人から見ると、想起される場合の要因となるのは過去の経験であり、本人にとっては[これだけの(印象深い)経験が有るのだからそのように意識しても当然]と理解し、必ずしも決定論にしばられてはいない(選択の自由は残っている)と感じているように思う。ある入力から想起された意識(エピソード記憶)は、本人を含んでいれば本人の実体験の記憶、本の記憶であれば本人が本を読んだ…と考えられ、それらが複数有ると…苦悩した記憶を思い出したら、[今回も悩んで同じように曖昧な結論を出す]か、曖昧さによる苦い経験を同時に思い出していれば[本で読んだ誰かと同じ結論を出す]か、先延ばしでうまくいったことを思い出したら[何もしない]…といった意識&行動につながるように思う。
ちょっと気になるのが、
ここから意識が生まれるのか?という話題の時に、[現時点で決定していないこと]を意識の必要条件と(世の中で)考えてしまうことが多いのがちょっと気になる。ふつうの人には選択の自由などの自由が有るから(自由意志が有るように感じ)、現時点では決定していないと感じると思うけど。ただ、あまりに厳密に考えすぎて、第三者(または神…十分な時間脳内の状態を観察可能なナニカ)から見ても決定していないことを条件にしようとしていないだろうか?ふつうは誰から見ても決定していないのは当然と思うかもしれないが、実際は、本人が決定していないように感じれば良いような気もする。上でいろいろ書いている仮説は、記憶から意志を決めている実感がありありと有ると感じているにかかわらず、完全に決定論に従うという考えである。n×n×… の要素からどれが閾値を超えて意識されるかは予測できない時、本人にとっては決定していないと感じるのではないだろうか?将来、計算機に「運命は決定してると思うか?」と聞くことは一応必要だろう。
長くなったので書くかどうかためらうが、もともと自由意志は存在する(または存在には拘らない)と考えていたのですが、今回、決定論側に立つ仮説を書いたので、定型のFAQ(仮):
- 本人の行為に責任を持つことが可能かという問いに対しては、「本人の過去の経験から生じる行為には責任が有る」
- 本人が罪を犯した場合、行った過ちを避ける手段は有ったかという問いに対しては、有った。…但し、あることをinputすれば必ずこうなるというものは無い。input時点で[ゆらぐ](同じようにはできない)。また、それ以前の条件が異なるため同じ効果にはならない。
- 逆に環境がその罪を引き起こしたのかという問いには、yes。…但し、主要な環境を作った人には責任が有るが、主要でない部分にも原因は有る。読書?気候?病気?虫?…そう主張する考えも否定できないと思う。(ここまで言わない方が良いのかもしれないが)
※以上、12/10に日付が変わった頃のtwitterへのpostを中心に加筆・修正。
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