進化しすぎた脳: 池谷 裕二 「意識」、「クオリア」について
進化しすぎた脳: 池谷 裕二 から「意識」、「クオリア」について考えた。
進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)
- 作者: 池谷裕二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/19
- メディア: 新書
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- 意識
- 池谷氏は、意識が有ることの条件の一つを、(当事者が)「判断(コントロール)できること」としている。(「感情」もコントロールできないので無意識。)(あと二つの条件は「短期記憶」と「過去の記憶(の可塑性)」。)
- 別の解釈では、(記憶していない)新しい情報入力に対し、新しい反応を返すことを「意識」と言う場合も有るように思う。(←言葉通りに捉えた「無意識」と反対の意味としての「意識」。)「考える脳 考えるコンピューター」で明示はしていないが、ボクはそう解釈している。「意識の探求」ではほぼ文字通りの解釈を取っているように思える。
- しかし、池谷氏にとっては、被観察者が記憶しているかどうかは観察者から判断できないため、上記3条件の解釈を取ったとも考えられる。(←新しい解釈を無理に持ち出す必要は無いように思えた。)
- 池谷氏の解釈では、一般的に意識して行っていると思われていることの大部分は無意識に行っているものとしている。(「意識」の解釈を非常に限定的に考えているため当然か。)
- クオリア
- 池谷氏: 世界を体感している実感「クオリア」も無意識。(例)リンゴが甘酸っぱいものはしょうがない(表現を選択できない)。
- 池谷氏: 「クオリア」につながる入力が有った際、例えば「悲しい」と感じても、単に脳の副産物、脳活動の結果に過ぎないという基本的な考え。ただ本人がそう感じるだけでクオリアは脳が生んだ最終産物で、クオリアが再び神経に作用することは無い。たとえ外部観察者から見て変化が読み取れたとしても、それは「クオリア」に起因する反応ではなく、扁桃体などの働きによるものという考え。
- この解釈は、クオリアについてハード・プロブレムと呼び、または心脳問題と呼び、特別扱いしてきた考え方に対し、一定の影響を与えているだろう。
意識の問題に寄りすぎたかな?脳の話になるとこうなってしまう。擬似的なもの(神経系のしくみを直接用いないシステム)の話をした方が良いのかもしれない。それと、自由意志についてまた色々読む機会が有ったが、これは触れるべきではないと思った。あまり考えずに自由意志有り、または経験(エピソード記憶など)により確率的(または気まぐれに)意志決定していると考えておく。
keyword: 人工知能