メタ認知と意識のあいだ〜メタ認知は意識のなかでも高度なものと考えるけど

マッハの原理の視点でもホムンクルスは必要条件かどうか。エピソード記憶の中の要素の結びつきを「私」の意識として思い出すことで、あたかも「私が」そこにいるように意識(メタ認知)されるのかも .(←このツイートのみ10/23付)
茂木さんのweb上のクオリアマニフェストには、ホムンクルス前提の議論は主観性の問題の本質的解決にはつながらないというような記述も有り最近の主張は不明だが、彼のtwitterでは「ホムンクルスは構築されなければならない」とも言っている。人の意識にマッハの原理が関与するかどうかは現時点では不明。
一方で、メタ認知については比較的イメージしやすいので色々な理解が有ると思われる。ここから私見ですが、メタ認知って、「本人の○○という思い」と「○○という思いについてのエピソード記憶」と(もっと言うと)「メタ認知とは…」という3つの[記憶]がそれぞれに連想して生じるように思う。つまりメタ認知を考える時に、ホムンクルスのようなものは不要と思う。他のエントリで(ascone関係だった?目次の整理が必要かも)意識について書いたが、メタ認知についても同様に思う。メタ認知には「本人の○○という思い」を見つめる何か(ホムンクルス)が必要と思っている人も多いと思う。でも「[○○なことを考えるボク]なんてキライだ」と言うときに[○○なことを考えるA君]と[○○なことを考えるボク]にどれほどの違いが(脳内で)有るのだろう。実際には○○なことを考えている記憶(理解とも言う)とその主体であるボク or A君の記憶(理解)が連想しあっているような状態でないかと思う。
ただ、[○○なことを考えるA君]から[○○なことを考えるボク]を連想すること自体は、(進化論上は)結構難易度が高いと思う(多くのヒトには可能かもしれないが)。自己という認識は鏡のテストなどの事例を聞くと動物にとってかなり難易度が高そうだし、最初に頭の中にホムンクルス(しゃれですよ。洒落。)による視点の考察をするというのは難しそうに思う。メタ認知の概念が無かった頃に最初にそのステキな概念を考えた人(何万年前?)にはノーベル脳科学賞をあげたい。
ここでは「意識(一般的な「意識にのぼる」の意味…「メタ認知」も含む)」と「メタ認知」を区別して使っています。←この分類は大丈夫と思うけど、「意識」自体の理解が(たぶん)確立されてないので、意識を「意図」や「意志」のように理解される人もいるかと思いますが。
思うこと: メタ認知とは…(という概念や自己反省)についてのエピソード記憶の部分は、「本人の○○という思い」のエピソード記憶から連想されてメタ認知に使用されるように一見感じられることから、疑似(仮装)ホムンクルスと呼んでも良いのかもしれない。ここで言ってるのはメタ認知とはというエピソード記憶メタ認知の概念の理解に使用され、「本人の○○という思い」などのメタ的な入力から毎回連想される(呼び出される)ことで、あたかもメタ的な入力を監視しているように振る舞うという仮説である。
「理解」について補足: ここではエピソード記憶に有るものは「理解されている」と簡単に書いている。実際は連想のはたらきにより、縦横にいろいろな角度から、例えば「メタ認知」についての複数の知識が連想しあって…連立方程式の解のように複数の条件で同時に矛盾無く成立することで…あんな風に考えても、こんな風に考えても、矛盾無く正しいと感じた時、それは理解されていると考えて良いのではないかと思う。いろいろ考えた末、最後に思いついた方法でもう一度考え直しても、矛盾無く正しいと感じた時、何か脳内で満足を感じるような仕組みになっているのかも。ドーパミンのはたらきとかでww。

※以上、11/16に日付が変わった際のtwitterへのpostをもとに加筆・修正。

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