ascone関連その2〜「意識の探求」と「考える脳 考えるコンピューター」

前回のブログでは、「意識の探求」とホーキンスの「考える脳 考えるコンピューター」の類似性について少し書いた。視点の違いとして、「意識の探求」では、クオリアというものがナゾが多すぎ、かつ近付き難いところが有るため、クオリアについて非常に注視して検証されている。一方、その後のホーキンスの「考える脳 考えるコンピューター」では、「記憶との比較による無意識な予測システム、及び記憶に無い情報の脳の階層構造による意識システム仮説」に基づいて、「報告可能な意識の中身」(=AC?)に注目しているように思われる。

気になる点を一点。「意識の探求」では、反射ではない反応の有無による「意識テスト」により意識の有無を確認できると言っているが、これは、意識の無い生物は記憶能力が無いものと(結果的に)捉えているのではないかと思う。NCCを持たない種は、ある知覚入力に対して一定の運動を起こす、というシステムの集合体で・・・高レベルの保護も不要とまで言っている。
一方再び読み返してみると、ホーキンスは単細胞生物にも知能は有るとも言っている。[入力(感じ、感覚、意識経験、クオリア)]がDNAの記憶に作用して行動を起こすことはある種の知能とも言え、この[入力]を受け取るものを意識と理解することは考えられないだろうか?さらに、大脳新皮質の有る動物は、記憶による類推が可能で、高度な知能を持っている。この「記憶との比較」により今入力されるクオリアをそれと気づくことができて、これを「意識の探求」では[意識]と呼んでいるのではないかと考える。
「魚は網が死を意味することを学習できない。」(ホーキンス)と有るように〜記憶の機能を(たぶん)持っていない生物はクオリアに対しそれなりの気づきしかできないと推定する。「意識の探求」で言う「意識テスト」は、憶えていることを思い出して反応することの有無の確認と置き換えることはできないだろうか。「意識の探求」で意識を持たないと言っている部分は、ある種限定された知能を持っていると読み替えることができ、その意味で考え方はつながっているように思う。
これらのことは、既に既知で大多数は次のステップに移っているのかもしれない。前の文献を参考に次の文献が書かれることは良くあることと思う。今回、Twitterではそこまで話が出なかったので一旦書いてみる。


話はまた変わるが、雑誌ニュートンではたまに脳特集が有るが、「意識の探求」や「考える脳 考えるコンピューター」の話は出てきた記憶がない。ナワバリの話は無いと思うが、ガッカリした記憶がある。海馬についてのホーキンスの考えなどは面白いと思う。この働きの計測など進むことを期待したい。
「考える脳 考えるコンピューター」の仮説では、記憶をつかさどる海馬は、新皮質のトップに位置付けられていた。雑誌: ニュートンの記述では、記憶は海馬が重要な働きをする。感覚情報(これは大脳皮質に有る)は海馬に入り、最終的に(再び)大脳皮質に保存されるとされている。これはホーキンスの考えとは矛盾はしていない(と一応言えると思う)。仮説は、大脳皮質の感覚野に入った情報が、記憶として保存済みの情報との比較により、①記憶済みの場合は記憶した通りに再理解しつつ記憶通りに動作する。②新規の情報の場合は多層の階層を駆け上がり真に新規の場合は海馬にたどり着き記憶される。ただし海馬に一旦入った情報は、その後の同一のinputの連続などの経験により階層を降りてゆき、長期記憶として大脳皮質に記憶される。海馬が頂点で、駆け上がる情報の経路と降りてゆくときの情報の経路は(「情報の逆方向の流れ」の意味で)同一。
ニュートンでは、ホーキンスが重要と位置付けた「情報の逆方向の流れ」の言及は無い。海馬への経路と海馬から大脳皮質への経路は(意図的にか)分けて図示されている。この逆方向の流れを計測することで、記憶と理解や意識の関係が分かってくるように思う。

ホーキンスの仮説をなるほどと思う事例: 自宅のドアノブの調子(or 開閉の音 or ドアの傷 or..)が昨日の記憶と同じであれば、記憶通りドアを開け帰宅し、ドアを意識もしない(情報は海馬には到達しない)。ドアノブの調子が違う時、初めて意識され情報は海馬に到達する(→新たな記憶)。海馬に情報が到達しないレベルの反応時は、「情報の逆方向の流れ」が理解しやすいと思う。不完全な(薄暗かったり)情報inputに対し、(大脳皮質にある記憶ベースの)逆方向の流れを返し、情報を補完し、記憶との矛盾が無いか比較する。。
>すべてが予測通りであれば、それが意識にのぼることはなく、あなたはドアをとおり抜ける。予測が正しいのは、理解していることにほかならない。(この本の宣伝者となるのはこの辺にしたい。)

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